老若男女の区別なく
何時でも 何処でも 一人でも
自分のペースで無理が無く
礼法 着付けに気を配り
呼吸正しく 姿勢よく
肚(はら)を養い 気を練りて
浮き世のうさを打ち忘れ
心を静め抜く居合
破邪の剣を携えて 己が心の闇を斬る
今は昔の武士(もののふ)の心に触れる居合道
いかがですか? 説明不足ながら居合のほんの一部の事を、独断でお話させて頂きました。
貴方も居合の仲間入りをしませんか。門を叩かねば門は開きませんよ。
真武術 龍魂会 居合部
一般に一寸以下を短刀、二尺までを脇差 二尺以上を刀と区別してます。また戦国時代が終わる頃までの刀を古刀、それ以降は新刀、江戸時代の物は新新刀、明治の廃刀令以後の物は現代刀と呼ばれ、昭和時代の物を昭和刀、または現代刀と呼んでます。また居合稽古の為に作った合金鋳物造りの稽古用の刀は居合刀等の呼び名があります。
腰に刃を下に下げて吊る刀は太刀。腰の帯びに差すのは打ち刀。展示会なので刃を下に展示してあるのが太刀。刃を上向きに展示してあるのが刀です。
最近、女性の中に刀に興味の有る人が増え、展示会などで目を輝かせているのを眼にする様に成りましたが、居合の高段者でもテクニック・試合・審査を優先する余り、根本の刀の事を話す人が少なく成ったのは残念なことです。
真武術 龍魂会 居合部
刀は単なる道具ではありません。ましてや人斬り包丁でも大型ナイフでも無く、神様の化身の霊器なのです。砂鉄を約1200度程度の低温で溶かし、最低17回も折り返し鍛錬します。柔かい鉄に硬い鉄を包込んで、折れず、曲がらず 良く切れる日本刀は、人を殺す道具では無く、人を活かす「鬼手仏心」を表した霊器なのです。だから始めと終わりには必ず刀に礼をして、神様仏様に刀をお返しするのです。
昔のお侍は、刀は神様の化身。化身した神様が自分と皆の平安を守ってくれる魂と感じ、ひと時も身から離さなかったのですね。
ですから、私達はお刀様として、大切に丁寧に扱わねばならないのです。人様のお刀を勝手に触る事は、その人の魂を弄ぶ事で厳禁です。人に触られるのも極力防がねばなりません。
特に他人の抜き身の肌に触れる等はもっての外。注意しましょう。
真武術 龍魂会 居合部
構えには古流により様々な構えがありますが、全剣連では五行の構えとして、中段の構え 上段の構え 下段の構え 八相の構え、脇構えがありますが、スポーツ化した竹刀剣道の試合では、八相の構えや脇構え、下段の構えはあまり見られません。竹刀と真剣の重さや鎧兜を付けての戦い方や叩く事と切る事は違うからですね。
自然界のすべてのものは木の気 火の気 土の気 金の気 水の気から出来ていると言う陰陽五行説との考えになぞらえ、八相の構えは、木の構えとも呼ばれ長い戦いで刀の重みを軽くする構えとか、大木の様に平然と立ち、敵の首筋切りつけたり、八方に攻撃できる構えとされております。
上段を火の構え、天の構え、と呼び相手の攻めに対しても動じない気位で、丹田に力を込め相手を飲み込んで、威圧し相手を焼き尽くす様な強い攻撃的な構。左足が出て居れば左上段。右足が出て居れば右上段と呼びます。
下段は鋒を相手の膝あたりに付ける構えで、土の構え、地の構え等と呼ばれ摺上げや上段の構えに対する構えで、これも軽い竹刀競技では見る事がありません。
脇構えは金の構えとも呼ばれ敵から自分の刀の寸法が分からなくし、自在に攻撃出来る構えで、敵の胴小手 足への攻撃に使います。
中段の構えは、五つの構えの中心となり基本の構えで一名水の構えと呼び、攻防自在で、水の様に変化できる構えで、冷静に常に己を守り、攻防自在の構えで人の構えとも、青眼 正眼 星眼 臍眼 晴眼等と呼ばれます。いずれも左手は中心線をまもり、上下に動く事が原則。
この五行説は森羅万象、木が燃えて火を生じ、火が燃え尽きて土に帰り、土が塊り金属となり金属が溶けて水に成り、水は木を育てるとの思想から来てます。
上段の火の構えには水の構えの中段の構えで応じ、水の中段には水の気を止める下段の土の構え、土の構えには土の気を吸い取る木の構えの八相を取ると言うこれらの相関関係を説いたもの剣術の構えに用いたのが陰陽五行説の一つであるのですね。
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今時、刀で身を守ると言ったら時代錯誤のおバカさんですよね。では、あなたは何を目的に居合を学びたいのですか?
見ていて格好いいから? 何か運動をしたいから? 袴姿って格好良いから?
刀が好きで振ってみたいから。心を鍛えたいから。日本の伝統文化に触れて見たいから。段位が簡単に取れそうだから。伝統を体験したいから。昔のお侍の気分に浸ってみたいから等々、人それぞれに違っています。居合を始めようとする皆さんは、それぞれ大変多くの課題を胸に居合の扉を叩いたのでしょうね。それで良いのです。人を斬る事のみの武術を考えた居合より100人に100通りの居合の目的があってよいのです。趣味は道楽で「道」を「楽しむ」ものです。全剣連段位では五段までは道楽で良いのです。
少し硬い話しになりますが、居合は一名「鞘の内」とも言われるように、刀を抜かずして「天地万物と和する事」が核心です。全ての物に心を居合わせるのが居合の真髄であります。流祖の妙力を練磨して、形から心に入り、技より心を養う。「靈器日本刀」により正しい刀法と身体の運用を極め、剣心一如の妙を悟り、品格のけん制に務め、各人の天職に奉じ、処世の大道を歩む事に、真の居合道の意義があり、居合修行の目的は自己完成、即ち、居合修行に依って心身を鍛錬し、人格の向上に努める事が目的である。我が流の師から教わっております。
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はい。先ずは礼法です。武道は礼に始まり礼に終わるのです。
お体の具合の悪い人は別ですが、通常の人には刀礼や稽古の時、また人様の技を拝見する時等は、勿論正座をして貰います。
日本人の考え方として、キリストやアラーの神等、唯一無二の神が世界を制しているのでは無く、800万の神々がこの国には存在して、我々を守って下さっているのです。トイレにも、台所にも、道場にも玄関にも、車の中にも、山にも、海にも、そしてご自分の「お刀様」にも全ての所に神様が住んでおられるのです。ですから、稽古場に入る時は稽古場の神様にご挨拶して入り、先生にはもちろんお仲間にも、そして「お刀様」にも稽古をさせて頂くことへのお礼と、安全のお願いをします。稽古が終われば稽古のお礼と感謝の気持ちを表す為に、仲間やお刀様、稽古場の神様に礼で挨拶して終わります。
礼とは他人を敬う心が発する物です。礼が無いというのは人を無視した失礼な態度です。別に深く考える事は有りません。ありがとうの心が有れば何でもない事です。これが日本文化の基本なのですよ。礼の無い格闘術は武道とはみなされません。脱いだ靴を揃える。明るく挨拶する。頭を下げる。感謝する。これが武道の精神です。斬った張った、投げた投げられた。叩いた叩かれた、勝てた負けたと言う「結果論」だけの武技は、日本武道の本質ではなく、礼の無い武術はキチガイに刃物を渡す様ものです。
日本武道の根底は人を思いやる心なのです。確かに居合は人を切る技術を学びますが、手は鬼・悪魔でも心は仏様なのです。同じ斬るでも苦しみ、もがき死ぬ斬り方で無く、苦痛もなくお穏やかに一瞬に天国に送ってやる斬り方が居合の斬り方、相手を思う礼儀なのです。
真武術 龍魂会 居合部
[:ja]一般に敵とは、自分に仇なす者が敵ですよね。でも、我が流儀は出来るだけ敵を斬りたく無いのです。敵が攻撃をする気が無くなれば、こちらは斬る必要は有りません。人を斬るとは、此れまでその敵が関わった全ての人の絆を否定し、人格をも否定して斬る事なのです。とても重い事なのです。
我々の修行する居合の究極の目的は、段位を上げる事でも、技が上手に成る事でも、人様に助言する事でも、ましてや敵を斬り殺す事では有りません。
居合の究極の目的は、居合稽古を通して「完成された人に近ずく為の方便」なのです。
誰にでもトテモ嫌な「もう一人の自分」が居ります。陰険・打算・嫉妬・いじわる・優柔不断・弱虫・粗暴、自己主義等々数えれば限が有りません。そんな裸の自分を自分の前に吐き出して、その嫌な心の「物の怪(もののけ)」を斬ろうとして、刀を抜き出します。己の敵は己の中にいる、しかもとても強い敵なのです。だから100回 1000回 10000回とその敵と向かい合う事で、神の化身の「お刀様」が、我が心の敵を一つずつ切り取ってくれるのです。なので、我々は居合を真剣に抜かなくてはなりません。これは一つのイメージトレーニングですが、こんな事に居合の効果を求めるのも現代居合と考えても良いと思っております。貴方はあなたの居合を見つけ、居合を通してそれを実現して下さい。
真武術 龍魂会 居合部[:]