【天骨コラム】岩﨑大河の戦いについて、1995年前後に燃え尽きた大道のオッサンが思う事。

2022年12月28日 両国国技館において行われる「巌流島×イノキボンバイエ」の興行で、大道塾の岩﨑大河がベラトールの元ミドル級チャンピオンと戦うことになったので書いておくか。

記者会見の折、谷川Pが大河を紹介する時に「私としては非常に思い入れがある対戦」云々と言っていて、それから市原先輩がUFC2に出た話などをしていたが、俺にとってもその市原先輩のUFC2参戦については色々な思いがあり、言えないこともたくさんあるのだが「そうだよな~」と思った。まさか「UFC」とか「総合格闘技」がここまで市民権を獲得し、若者に絶大な人気を得た格闘技になるとは、その当時は考えもしなかったわけで、今、俺の目の前で大道塾生として壇上の会見席に座る大河を何とも不思議な感じで見ていたのだ。彼は総合格闘技、MMA選手だが、市原先輩は空手家として戦った。なるほど、それも時代の流れなのか、と移り行く世の中の流れを感じるものだが、連綿とつながるひとつの縦線に俺は少し感慨深い気持ちになっていたなぁ。「それにしても、市原UFC参戦からもう28年の月日が流れたのか~。俺、今52だから、もう一回あの28年の年月を生きるとすると80歳か~。死んでるかもしれんな~」とかね。なんだ、自分の事か。

 

あの当時の格闘技界の状況や流れは、今ここでくどくど書いても仕方ないし、検索して他のサイトを見てもらえばいいので書かないが、ひと言だけ書くとすると「あの当時、1994年の段階で、何でもありの大会があったとして、対応出来る団体は大道塾しかなかったのだ」ということ。もちろん、修斗やシュートボクシング、骨法など日本の総合格闘技黎明期を支えた団体はあったが、大道塾は選手層が圧倒的だった。大道塾はその当時、世界において単一としては断トツ規模の総合格闘技団体(もちろんアマチュアの空手団体ではあったが、本質的に総合)だったのだ。

 

俺は以前、『ドラゴン魂』誌上で「大道塾の方法論は東孝が発明し、長田賢一が証明した」と書いたが、その後に本当は「市原海樹が実践した」と付け加えなければならないだろう。結果はどうであれ、未知数(UFC)の状況に突っ込んでいけたパイオニアを生み出したのは大道塾で、大道塾のあの規模があったからこそ出た人材だと思う。スゲェよ大道塾!その遺伝子が大河に宿っているとしたら………、ロマンがあるじゃないか!格闘技はロマンだよキミ~!オ~ス!

「市原海樹が実践した」の後に「そして岩﨑大河において〇〇した!」と書けるのかよ!オイ!

大河頑張れ!相手は強豪で、おまけに柔術家! お得意の顔面パンチ連打でぶっ飛ばしてくれ~!

 

補足

これも以前『ドラゴン魂』に書いたが、俺はルールとか競技とか技術には基本、興味がない。18の頃、本当は極真に入ろうと思ってたのだが、直前になって大道塾に入った。大道塾がどんなルールなのかとか、あんまり関係なくて、長田先輩がムエタイのリングに上がってラクチャートと戦った『月刊空手道』の記事を読んで驚愕し「今、“概念としての極真”は大道塾にあり!」という妄想を持ったまま上京して現在に至っているのだ。