後半、道場の階段の所で撮影した後、先生が俺の胸元に手刀でドンと気合を入れたところはグッときます。先生は周りの色々な人たちに気配りがすごかった。俺にドンと気合入れたのも、俺がそういう事されると嬉しがる事を知っての事だと思う。おそらく、昨日入ったばかりの白帯にも気を配るぐらいだった。そういうエピソードを道場生の方から聞いた事がある。凄い漢でした! 動画の最後に写真館などつけました。泣けてくるぐらいカッコイイですよ!ぜひ見てね。
以下ドラゴン魂掲載の真樹先生追悼文
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俺と真樹先生
文 川保天骨
真樹日佐夫先生が亡くなられて三年が過ぎようとしている。ウーーン、もう三年も経つんですか~。信じられんな~。俺の人生に大きなインパクトを与えて逝った先生!先生と接した瞬間瞬間の事を思い出しながらこれを書いてます。
出会いも別れも突然でした!
真樹先生と初めて会ったのは『格闘Kマガジン』の取材で先生が出演するVシネマの撮影現場だった。山田編集長と一緒に行ったので、スタジオに入ってまずは先生に挨拶。「先生、この人、川保天骨っていうんですけど、今日先生の写真撮るためにカメラマンで連れてきました。こいつ、大道塾の中量級チャンピオンなんですよ」山田編集長は人に紹介する時、必ずこういう風に紹介するのだ。俺としてはチャンピオンといってもずいぶん昔の話なので、いささかこそばゆいわけだが、紹介された相手はその事でよく俺の事を覚えてくれるから都合がいいと言えば都合がいい。真樹先生は俺を一瞥すると「ウィ~、ワカッター。適当に撮れよ」とガラガラ声で言った。会う前に山田編集長が真樹先生がいかに怖いかという事を俺に散々言い聞かせて、ビビらせようとしていたわけだが、俺としては怖いという感情を持つわけがかった。元はといえば先生も俺も同じ“空手の世界”に属してい人間なわけで、その世界に属している限り下の人間は上の人間に接する場合、あるひとつの“型”さえ守っていれば恐れ慄くことはないのである。俺はそういう武道における上に対する接し方を極限まで訓練していたのだ。
撮影の合間に真樹先生の写真を撮ってたら、真樹先生がおもむろに近寄ってきて「お~う、俺ばっかり撮ってんのか~」とガラガラ声で言いながら右手で俺の首を喉輪して持ち上げようとする。先生のサングラスの奥で優しく微笑む先生の目が透けて見えた。『ああ~、この先生は、優しいな~』と思った瞬間である。こういう肉体的接触は“この世界”では『俺はお前のこと見てるよ。存在を認識しているよ』というサインなのだ。そういう出会いだった。先生とはそれから色々あった。蒲田や横浜で喧嘩しり飲んだりした場所のロケ地めぐりとか。撮影も連載の撮影だの特集の撮影だの。クルーザーパーティーや真樹道場の忘年会も呼ばれて行った。先生が『テンコツ、テンコツ』と言って何かと気をかけてくれているのが俺にはよくわかった。
「テンコツ、お前、会社やっていけてるのか?」10年ぐらい前の真樹道場忘年会で先生が俺にそう聞いてきた。「いや~、ギリギリです。自転車操業です。おまけに立ちこぎ状態です」先生はニヤリとして「でもお前、そういう事は知ってたんだろ?」「はっ?!」少し狼狽する俺。「そういう事になるって最初から知ってやり始めたんだろ。商売を」「………は、はい……。そ、そうです!」「そしたら、ヤルしかねぇだろ!ガンバレ」そして握手。その時、俺の会社は確かに社会の荒波にもまれまくっていて、さすがの俺もくじけそうになっていた時期だけに、心に深く刻まれた言葉だ。
その先生が亡くなる一週間ぐらい前、再び真樹道場の忘年会で隣で飲んでいる俺のグラスを指差し「オーイ、テンコツに酒!」とワインをドボドボ注いでくれる先生。どこまでも人の事を気にかけてくれた。ボトルの口から赤ワインのしずくが先生のズボンにポタポタ滴るのも構わず、先生は俺のグラスに注ぎ続けた。(終わり)蒲田での写真。真樹先生はこのいでたちで一人で電車に乗ってきて一人で電車に乗って帰っていった。
クルーザーパーティーに呼ばれて酒を飲む俺。隣は山田編集長。先生は海の男が被るような帽子をかぶっていた。
『格闘Kマガジン』の表紙のために俺が撮影した真樹先生の写真は俺の好きな写真の一つだ。梶原先生と真樹先生が特集された貴重な本。
横浜の中華街での写真。山田編集長は俺を真樹先生に会わせた人です。
被写体としても最高だった真樹先生。初めて会った時に撮った写真。