居合道にようこそ 第六回 仮想の敵を斬るのが居合。その敵って何なの?

[:ja]一般に敵とは、自分に仇なす者が敵ですよね。でも、我が流儀は出来るだけ敵を斬りたく無いのです。敵が攻撃をする気が無くなれば、こちらは斬る必要は有りません。人を斬るとは、此れまでその敵が関わった全ての人の絆を否定し、人格をも否定して斬る事なのです。とても重い事なのです。

我々の修行する居合の究極の目的は、段位を上げる事でも、技が上手に成る事でも、人様に助言する事でも、ましてや敵を斬り殺す事では有りません。

居合の究極の目的は、居合稽古を通して「完成された人に近ずく為の方便」なのです。

誰にでもトテモ嫌な「もう一人の自分」が居ります。陰険・打算・嫉妬・いじわる・優柔不断・弱虫・粗暴、自己主義等々数えれば限が有りません。そんな裸の自分を自分の前に吐き出して、その嫌な心の「物の怪(もののけ)」を斬ろうとして、刀を抜き出します。己の敵は己の中にいる、しかもとても強い敵なのです。だから100回 1000回 10000回とその敵と向かい合う事で、神の化身の「お刀様」が、我が心の敵を一つずつ切り取ってくれるのです。なので、我々は居合を真剣に抜かなくてはなりません。これは一つのイメージトレーニングですが、こんな事に居合の効果を求めるのも現代居合と考えても良いと思っております。貴方はあなたの居合を見つけ、居合を通してそれを実現して下さい。

真武術 龍魂会 居合部[:]

居合道にようこそ 第三回 居合道って真剣を使うのですか?

そうなんです。刀は「お刀様」という神様の化身なのです。居合の精神文化を守る為には是非共真剣を使い、真剣に「斯道(学問や技芸などで、この道、この分野)」を進んで頂きたいのですが、現代刀と呼ばれる明治4年以降の刀でも相当高価です。それによく切れるのが日本刀の醍醐味。とても危ない道具?なのです。そこで稽古には鞘木刀を使ったり、居合稽古用に合金鋳物で鍛錬してない「居合刀」と称する刀が、武道店で二万円代から手に入ります。鞘木刀なら8000円程度。稽古衣上下で25000円くらいです。

居合はまた、民族衣装・着付けの伝承でもありますので、筒袖の上着(稽古衣)と帯、袴が必要となります。全剣連居合を学ぶ人は上下白か黒の稽古着を着装する決まりがあります。

因みに白色の稽古着は夢想神傳の祖、中山博道が居合を稽古する者は心に一点の汚れがあってはならないと、神官の白袴を門人に着けて稽古させ、上下白の白装束は「死装束」なのでそのつもりで稽古しなさいと言われたそうです。ただ、実の所は紺や黒の稽古着では汚れが目立たず、洗濯せず不潔に成るので白と決めた様ですよ。然しながらその教えも次第に崩れ、現在では他流の人も含めて自分の好みの色の稽古衣を着ている様です。(全剣連居合は黒または白の上下と決められています)

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居合道にようこそ 第二回 何故、古流から現代居合に成ったのですか?

刀を表芸として名乗る流儀(グループ)は700流派とも1000流派とも言われておりますが、鉄砲の伝来で戦闘手法も変わり、明治維新の文明開化では侍の象徴の刀を差す事を禁じる廃刀令で、刀の時代は終わりました。剣術の流儀は細々と伝統文化として教え伝えられていましたが、第二次世界大戦に敗れ連合軍(米国)の命令で武術禁止令と300万振りのも文化財産でもある日本刀が没収され廃棄されました。現在残る刀は武器ではなく、美術品としての刀になりました。

明治維新後、刀は不用な物として、廃刀令が出され武術は衰退の道を辿りましたが、志ある士によって日本文化、民族伝統文化である武術、居合を各緒流儀合同で守り発展させようとする動きが生まれました。明治19年には西南戦争の反省から剣術が見直され、警視庁が各古流の技の粋を集めて10本の警視庁流抜刀術を制定。明治32年に武道の大本山の大日本武徳会が、大日本帝国剣道形を制定し、昭和29年に大阪の英信流宗家河野百練を中心に「全日本居合道連盟」が発足しました。その間に武道禁止令を乗り越え、武道ではなくスポーツ競技として「竹刀競技連盟」が認可され、全剣連が産声を上げたのです。先の戦争で一時途切れた、古武道界も古武道振興会から古武道協会が独立し、全剣連は居合を昭和44年に全剣連居合として各流派からの七本を制定としました。(現在は12本)

全日本剣道連盟に居合部会が発足し、居合の統一ルールを定め現代居合の中で最大グループとなっており、一級から八段迄のランクを作り免状を発行してます。ただ、残念ながら剣道はするが、居合は知らないという人が大多数であるのが現状です。

全剣連の技は座法・立業 計12本の制定技があり、2000年度の剣道連盟居合道部会会員は約90000人で、その内の約三割弱程度が女性で有ります。因みに剣道部会は166万人の人口ですので、まだまだ居合人口は低いと言わざるを得ません。

勿論、現代居合に留まらず古くからの教えを伝承文化、古流として居合を稽古研鑽されている方々も沢山おられます。

居合道にようこそ 第一回 居合っなに?

人から、ご趣味はと聞かれ「居合です」と答えますと、「いいご趣味ですね」とか「格好いいですね」とか、比較的好意的なご返事を頂きます。

中には「あの剣道の真似事を一人でするあれですね」とか「竹を切ったり、藁の束を切るあれですか」「長い刀を一瞬に抜くあれですね」「紋付で刀を振るうあれですか」とのご返事を頂く事があります。

何かのご参考までに、居合道について聞かれた事を思い出しながら、居合についてお話しさせて頂きます。

居合っなに?

居合は剣術(剣道)の一つなのです。居合は古くは居合術、抜刀術とも鞘の内とも呼ばれ、今から1200年程前に、祖林崎甚助重信が非業の死を遂げた父親の敵討ちのための修行で、奥羽の林崎明神に籠った100日目の夜、夢枕に白髪の老人が現れ、千変万化の刀法を重信に伝授したと言われます。彼はその刀法を会得し、遂に父を殺した敵を見事打ち取りました。その刀法こそが居合抜刀之術で有ります。重信以降は田宮流、伯耆流、英信流、無双流、重信流、夢想神傳流等多くの流儀が生まれ現在も脈々と伝わっていいます。

従来の剣術は鞘を抜いてからの刀法で有りますが、居合術は鞘を抜く迄に勝負が決まるので、一名「鞘の内」と呼ばれることがあります。居合は室町時代から続く武術ですが、現代では流祖の哲学、理合い技術等を守っている「〇〇流居合」と名乗るものを「古流」と呼び、明治以降に出来た全日本剣道連盟等が制定した居合を「現代居合」と呼んでます。居合人口の大多数が現代居合の愛好者で有り、その多くは全日本剣道連盟制定居合に集約されている様です。

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試合に関する考察

龍魂会の核心にあるものをあえて、武道とは呼ばず、武術と呼ぶのは以下の理由からである。

試合偏重も試合否定もしない

試合に出ることは、修行者にとって多くのものをもたらす。勝負に対する執念。そこに至るまでの努力。実際に相手と対峙する恐怖、勝負勘、度胸など内的鍛練。しかしその一方で失うものも大きい。

独善的価値観。競技の専門化、スポーツ化によって忘れ去られる真の実戦。

本来の闘いにはルールがない。状況が固定されていない。どこで、いつ、誰が、どんな状態でという前提がないのだ。試合はあくまでも試し合い。本当の現実的な闘いではない。試合に出る事の弊害は、現実の闘いと虚構の闘いを混濁してしまうところにある。試合は試合。現実は現実なのだ。ボクシングのチャンピオンだから現実の戦いに強いのかといえば、ある意味、強いかもしれないが、本当の現実の戦いの中では、ボクシング自体が命取りになる可能性だってある。
試合に出て勝ち続ける人は、集中力がある。しかしその集中力とは一つの対象に対しての集中力であり、己の存在外に対しての全方位的な集中力ではない。武道競技者と武術家の決定的な違いがここにある。
本来の武術的な思考は、まず闘わないことであり、いざ闘うことになれば、相手を殺して己が生き延びる事を前提としている。相手が何人いるか、どんな武器を持っているか、どんな戦法か、どんな精神性か?複合的な要素を一瞬で見抜いて、考える前に行動に移さなければならない。固定観念のもとに修行していると、この前提を忘れてしまう。
武術の修行は、スポーツの練習ではない。ゲーム的な概念ではないのでまったく別物だということだ。

何度も言うが、試合に出る事は多くの利益をその修行者、競技者にもたらすことが期待できる。ただ、それだけに固執してしまうと、その先にある大きなものを見失ってしまう。
真武術 龍魂会は、ゆえに試合を否定はしないが、肯定もしないのだ。

文・川保天骨

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