オルタナスタジオについて

今から2年半ぐらい前に書いた文章ですが、初心に帰るため掲載です。

自分の稽古場所が欲しいと思い始めたのは1年ぐらい前だとは思うが、本格的に物件を探し始めたのは今年の7月くらいか。不動産屋から情報が来るたびに一軒一軒虱潰しに見ていっていたのだが、どうも「これだ!」という物件がない。問題はつまり、天井の高さだ。通常の造りをしている部屋は天井の高さがだいたい2メートル50センチほどで、剣を振るには最低でも2メートル60センチ以上はないと天井を斬ってしまうことになる。案の定、オルタナエンターテイメントの事務所の天井は幾重にも斬られた刀の斬り筋があるし、自宅に至っては天井こそ斬りはしなかったが、天井に装着されている火災報知機を斬ってしまい、2万円もの弁償金を支払うはめになった事もある。結構、色々な所で素振りしてるわけだ。

私が居合道を教わっている和田喜四郎先生は、「天井が低いなら低いなりに斬れ」とおっしゃられる。つまり『剣先まで己の感覚を行き渡らせろ』と言う事なのだろうと私なりの解釈をしているわけだが、まだまだ未熟の私には天井の低さは致命的だ。

天井の高い物件などというものは、何かその目的があって天井を高くしているのであって、通常の建築基準で建てられている建物で天井の高いものは皆無だろう。せいぜい、地下室とかぐらいか。

まあ、そんなに急ぎの話ではないし、いい物件があるまで気長に探そうという感じでいたわけだ。そんな折、十何軒目かに出くわしたのが今回の阿佐ヶ谷の物件、そう、今オルタナスタジオが入ってる場所なのだ。ここは内見して一発で気に入った。まず天井が高い。2メートル70とまではいかなかったが、それに近い高さ。剣を振ってもほぼ大丈夫だ。そして床が最近では中々見ない材質の素晴しいフローリング。大家さんから話を聞いたら、そもそもこの場所は野中まり子さんという女優の方の自宅で、地下は野中さんが主宰していた俳優養成所『野中塾』の稽古場だったという。さすが、威厳というか歴史というか、そういうものを感じさせる雰囲気があった。磁場というか、そういう運気のようなものも感じた。私は結構、霊感が強いのでそういうことを感じることが確かにあるのだ。いつもは薄ボンヤリとしているオッサンを演じているが、人生の極め時にそういう能力を発揮するわけで、こういう事は今までにも何度かあった。

まあ、とにかく10月1日からめでたく入居できて、11月に入ってもオープンまでの作業に忙殺されていたわけだが、1カ月以上の準備期間を得て、今ようやく陽の目を見ようとしている我がスタジオであった。

さて、ここの場所はまさに私の稽古場としての機能を持つわけだが、色々な需要もあるだろから信頼のおける人になら空いている時間は貸そうと決めていた。さすが己の稽古のためだけにスタジオの家賃を払うほど私は御大尽ではないのだ。もちろん会社で運営しているので多少なりとも必要経費ぐらいは…、税金のこともあるから、できれば多少の利益も出ればいいやという考えだ。

場所は押さえた。システムも構築されつつある。それでは次はその中身だ。つまりコンテンツだ!ここで龍魂会が登場するわけだが、そのことに関しては次回書きます。

 

 

居合道にようこそ 第八回 夢想神伝流ってなに?

夢想神伝流とは、神道無念流宗家で剣道範士・居合道範士・杖道範士の肩書きを持つ中山博道先生が、四国の英信流17代の細川義昌宗家より18代を相伝され、自ら無双神伝流とか、初伝大森流・中伝英信流・奥伝重心流と名乗り抜いておりました。博道先生没後に、高弟達が合議して「夢想神伝流」と流名を統一し、現在に伝わる日本最大の近代居合のお流儀であります。

居合道にようこそ 第七回 流派それぞれの居合は何が違うの

日本の全ての古武道には「〇〇流」という名前があります。

お流儀とは思想を同じくする人の集まりです。先師が命懸けで戦い、勝ったパターンを再現したものが、型と呼ばれるものです。ですから型はそのお流儀で違います。

因みに龍魂会 居合部では、中山弘道先生の夢想神伝流を中心に、一心無限流居合組太刀その他の武術を学んでおります。

 

真武術 龍魂会 居合部

居合道にようこそ 第五回 じゃあ居合の目的はなんなの?

今時、刀で身を守ると言ったら時代錯誤のおバカさんですよね。では、あなたは何を目的に居合を学びたいのですか?
見ていて格好いいから? 何か運動をしたいから? 袴姿って格好良いから?

刀が好きで振ってみたいから。心を鍛えたいから。日本の伝統文化に触れて見たいから。段位が簡単に取れそうだから。伝統を体験したいから。昔のお侍の気分に浸ってみたいから等々、人それぞれに違っています。居合を始めようとする皆さんは、それぞれ大変多くの課題を胸に居合の扉を叩いたのでしょうね。それで良いのです。人を斬る事のみの武術を考えた居合より100人に100通りの居合の目的があってよいのです。趣味は道楽で「道」を「楽しむ」ものです。全剣連段位では五段までは道楽で良いのです。

少し硬い話しになりますが、居合は一名「鞘の内」とも言われるように、刀を抜かずして「天地万物と和する事」が核心です。全ての物に心を居合わせるのが居合の真髄であります。流祖の妙力を練磨して、形から心に入り、技より心を養う。「靈器日本刀」により正しい刀法と身体の運用を極め、剣心一如の妙を悟り、品格のけん制に務め、各人の天職に奉じ、処世の大道を歩む事に、真の居合道の意義があり、居合修行の目的は自己完成、即ち、居合修行に依って心身を鍛錬し、人格の向上に努める事が目的である。我が流の師から教わっております。

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居合道にようこそ 第四回 礼儀作法って大変だよね。正座したりするのでかすぁ~

はい。先ずは礼法です。武道は礼に始まり礼に終わるのです。

お体の具合の悪い人は別ですが、通常の人には刀礼や稽古の時、また人様の技を拝見する時等は、勿論正座をして貰います。

日本人の考え方として、キリストやアラーの神等、唯一無二の神が世界を制しているのでは無く、800万の神々がこの国には存在して、我々を守って下さっているのです。トイレにも、台所にも、道場にも玄関にも、車の中にも、山にも、海にも、そしてご自分の「お刀様」にも全ての所に神様が住んでおられるのです。ですから、稽古場に入る時は稽古場の神様にご挨拶して入り、先生にはもちろんお仲間にも、そして「お刀様」にも稽古をさせて頂くことへのお礼と、安全のお願いをします。稽古が終われば稽古のお礼と感謝の気持ちを表す為に、仲間やお刀様、稽古場の神様に礼で挨拶して終わります。

礼とは他人を敬う心が発する物です。礼が無いというのは人を無視した失礼な態度です。別に深く考える事は有りません。ありがとうの心が有れば何でもない事です。これが日本文化の基本なのですよ。礼の無い格闘術は武道とはみなされません。脱いだ靴を揃える。明るく挨拶する。頭を下げる。感謝する。これが武道の精神です。斬った張った、投げた投げられた。叩いた叩かれた、勝てた負けたと言う「結果論」だけの武技は、日本武道の本質ではなく、礼の無い武術はキチガイに刃物を渡す様ものです。

日本武道の根底は人を思いやる心なのです。確かに居合は人を切る技術を学びますが、手は鬼・悪魔でも心は仏様なのです。同じ斬るでも苦しみ、もがき死ぬ斬り方で無く、苦痛もなくお穏やかに一瞬に天国に送ってやる斬り方が居合の斬り方、相手を思う礼儀なのです。

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居合道にようこそ 第六回 仮想の敵を斬るのが居合。その敵って何なの?

一般に敵とは、自分に仇なす者が敵ですよね。でも、我が流儀は出来るだけ敵を斬りたく無いのです。敵が攻撃をする気が無くなれば、こちらは斬る必要は有りません。人を斬るとは、此れまでその敵が関わった全ての人の絆を否定し、人格をも否定して斬る事なのです。とても重い事なのです。

我々の修行する居合の究極の目的は、段位を上げる事でも、技が上手に成る事でも、人様に助言する事でも、ましてや敵を斬り殺す事では有りません。

居合の究極の目的は、居合稽古を通して「完成された人に近ずく為の方便」なのです。

誰にでもトテモ嫌な「もう一人の自分」が居ります。陰険・打算・嫉妬・いじわる・優柔不断・弱虫・粗暴、自己主義等々数えれば限が有りません。そんな裸の自分を自分の前に吐き出して、その嫌な心の「物の怪(もののけ)」を斬ろうとして、刀を抜き出します。己の敵は己の中にいる、しかもとても強い敵なのです。だから100回 1000回 10000回とその敵と向かい合う事で、神の化身の「お刀様」が、我が心の敵を一つずつ切り取ってくれるのです。なので、我々は居合を真剣に抜かなくてはなりません。これは一つのイメージトレーニングですが、こんな事に居合の効果を求めるのも現代居合と考えても良いと思っております。貴方はあなたの居合を見つけ、居合を通してそれを実現して下さい。

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居合道にようこそ 第三回 居合道って真剣を使うのですか?

そうなんです。刀は「お刀様」という神様の化身なのです。居合の精神文化を守る為には是非共真剣を使い、真剣に「斯道(学問や技芸などで、この道、この分野)」を進んで頂きたいのですが、現代刀と呼ばれる明治4年以降の刀でも相当高価です。それによく切れるのが日本刀の醍醐味。とても危ない道具?なのです。そこで稽古には鞘木刀を使ったり、居合稽古用に合金鋳物で鍛錬してない「居合刀」と称する刀が、武道店で二万円代から手に入ります。鞘木刀なら8000円程度。稽古衣上下で25000円くらいです。

居合はまた、民族衣装・着付けの伝承でもありますので、筒袖の上着(稽古衣)と帯、袴が必要となります。全剣連居合を学ぶ人は上下白か黒の稽古着を着装する決まりがあります。

因みに白色の稽古着は夢想神傳の祖、中山博道が居合を稽古する者は心に一点の汚れがあってはならないと、神官の白袴を門人に着けて稽古させ、上下白の白装束は「死装束」なのでそのつもりで稽古しなさいと言われたそうです。ただ、実の所は紺や黒の稽古着では汚れが目立たず、洗濯せず不潔に成るので白と決めた様ですよ。然しながらその教えも次第に崩れ、現在では他流の人も含めて自分の好みの色の稽古衣を着ている様です。(全剣連居合は黒または白の上下と決められています)

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居合道にようこそ 第二回 何故、古流から現代居合に成ったのですか?

刀を表芸として名乗る流儀(グループ)は700流派とも1000流派とも言われておりますが、鉄砲の伝来で戦闘手法も変わり、明治維新の文明開化では侍の象徴の刀を差す事を禁じる廃刀令で、刀の時代は終わりました。剣術の流儀は細々と伝統文化として教え伝えられていましたが、第二次世界大戦に敗れ連合軍(米国)の命令で武術禁止令と300万振りのも文化財産でもある日本刀が没収され廃棄されました。現在残る刀は武器ではなく、美術品としての刀になりました。

明治維新後、刀は不用な物として、廃刀令が出され武術は衰退の道を辿りましたが、志ある士によって日本文化、民族伝統文化である武術、居合を各緒流儀合同で守り発展させようとする動きが生まれました。明治19年には西南戦争の反省から剣術が見直され、警視庁が各古流の技の粋を集めて10本の警視庁流抜刀術を制定。明治32年に武道の大本山の大日本武徳会が、大日本帝国剣道形を制定し、昭和29年に大阪の英信流宗家河野百練を中心に「全日本居合道連盟」が発足しました。その間に武道禁止令を乗り越え、武道ではなくスポーツ競技として「竹刀競技連盟」が認可され、全剣連が産声を上げたのです。先の戦争で一時途切れた、古武道界も古武道振興会から古武道協会が独立し、全剣連は居合を昭和44年に全剣連居合として各流派からの七本を制定としました。(現在は12本)

全日本剣道連盟に居合部会が発足し、居合の統一ルールを定め現代居合の中で最大グループとなっており、一級から八段迄のランクを作り免状を発行してます。ただ、残念ながら剣道はするが、居合は知らないという人が大多数であるのが現状です。

全剣連の技は座法・立業 計12本の制定技があり、2000年度の剣道連盟居合道部会会員は約90000人で、その内の約三割弱程度が女性で有ります。因みに剣道部会は166万人の人口ですので、まだまだ居合人口は低いと言わざるを得ません。

勿論、現代居合に留まらず古くからの教えを伝承文化、古流として居合を稽古研鑽されている方々も沢山おられます。

居合道にようこそ 第一回 居合っなに?

人から、ご趣味はと聞かれ「居合です」と答えますと、「いいご趣味ですね」とか「格好いいですね」とか、比較的好意的なご返事を頂きます。

中には「あの剣道の真似事を一人でするあれですね」とか「竹を切ったり、藁の束を切るあれですか」「長い刀を一瞬に抜くあれですね」「紋付で刀を振るうあれですか」とのご返事を頂く事があります。

何かのご参考までに、居合道について聞かれた事を思い出しながら、居合についてお話しさせて頂きます。

居合っなに?

居合は剣術(剣道)の一つなのです。居合は古くは居合術、抜刀術とも鞘の内とも呼ばれ、今から1200年程前に、祖林崎甚助重信が非業の死を遂げた父親の敵討ちのための修行で、奥羽の林崎明神に籠った100日目の夜、夢枕に白髪の老人が現れ、千変万化の刀法を重信に伝授したと言われます。彼はその刀法を会得し、遂に父を殺した敵を見事打ち取りました。その刀法こそが居合抜刀之術で有ります。重信以降は田宮流、伯耆流、英信流、無双流、重信流、夢想神傳流等多くの流儀が生まれ現在も脈々と伝わっていいます。

従来の剣術は鞘を抜いてからの刀法で有りますが、居合術は鞘を抜く迄に勝負が決まるので、一名「鞘の内」と呼ばれることがあります。居合は室町時代から続く武術ですが、現代では流祖の哲学、理合い技術等を守っている「〇〇流居合」と名乗るものを「古流」と呼び、明治以降に出来た全日本剣道連盟等が制定した居合を「現代居合」と呼んでます。居合人口の大多数が現代居合の愛好者で有り、その多くは全日本剣道連盟制定居合に集約されている様です。

龍魂会 居合部

 

試合に関する考察

龍魂会の核心にあるものをあえて、武道とは呼ばず、武術と呼ぶのは以下の理由からである。

試合偏重も試合否定もしない

試合に出ることは、修行者にとって多くのものをもたらす。勝負に対する執念。そこに至るまでの努力。実際に相手と対峙する恐怖、勝負勘、度胸など内的鍛練。しかしその一方で失うものも大きい。

独善的価値観。競技の専門化、スポーツ化によって忘れ去られる真の実戦。

本来の闘いにはルールがない。状況が固定されていない。どこで、いつ、誰が、どんな状態でという前提がないのだ。試合はあくまでも試し合い。本当の現実的な闘いではない。試合に出る事の弊害は、現実の闘いと虚構の闘いを混濁してしまうところにある。試合は試合。現実は現実なのだ。ボクシングのチャンピオンだから現実の戦いに強いのかといえば、ある意味、強いかもしれないが、本当の現実の戦いの中では、ボクシング自体が命取りになる可能性だってある。
試合に出て勝ち続ける人は、集中力がある。しかしその集中力とは一つの対象に対しての集中力であり、己の存在外に対しての全方位的な集中力ではない。武道競技者と武術家の決定的な違いがここにある。
本来の武術的な思考は、まず闘わないことであり、いざ闘うことになれば、相手を殺して己が生き延びる事を前提としている。相手が何人いるか、どんな武器を持っているか、どんな戦法か、どんな精神性か?複合的な要素を一瞬で見抜いて、考える前に行動に移さなければならない。固定観念のもとに修行していると、この前提を忘れてしまう。
武術の修行は、スポーツの練習ではない。ゲーム的な概念ではないのでまったく別物だということだ。

何度も言うが、試合に出る事は多くの利益をその修行者、競技者にもたらすことが期待できる。ただ、それだけに固執してしまうと、その先にある大きなものを見失ってしまう。
真武術 龍魂会は、ゆえに試合を否定はしないが、肯定もしないのだ。

文・川保天骨

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